因果についての考察

因果律、因果応報とは?

愚痴

たくみ 6月-14-2009 コメントは受け付けていません。

浄土真宗親鸞会で「因果の道理」を題材に話されている法話がありましたので、ご紹介させていただきます。

『世間ではよく、「愚痴をこぼす」「愚痴っぽい」「愚痴る」などといわれる。
「愚痴をこぼす」は、いっても甲斐のないことをいって嘆くことであり、それをいつもくり返す人が愚痴っぽい人である。
愚も馬鹿なら、痴も知恵が病気にかかっている字だから、同じくおろかで、ものの道理に暗いこと。

因果の道理(自因自果)とは思えないから、
「こんなはずではなかったに」
と、不平で世の中を呪い、ネタミとウラミで何度でも同じことをくり返しているから、感謝することを知らない。

俗に、
「隣の貧乏、雁の味」
「近頃は悪しくなりにけり、隣に倉が建ちしよりのち」
といわれるのも、愚痴から起こる悲しきネタミである。

同等の貧乏人が、一方は幸福が続いて、家も新築し倉まで造って旦那となり、一方は、相変わらずの不幸続きに子だくさんでうだつが上がらないから、隣が癪のタネになる。

心ひそかに、隣に何か腰の折れるような災難がおきればよいが、火事でもあったらよいがなあ、と祈っている悪魔の心がひそんでいる。

立派に成功したのも、貧乏が続くのも自業自得の道理。
愚痴で因果の道理が分からないから、馬鹿な心が出てくるのである。

一切の人の不幸を見ては冷笑し、禍いを聞いては横手を打って喜ぶ。
他人の名誉を憎み、友人の出世を怨み、人の不幸を楽しむ心はあっても、泣き悲しむ心はないではないか。ネタミ、ソネミ、ニクシミ、ウラミの醜い心が愚痴である。

なお、仏教では、貪欲(欲)瞋恚(怒り)と共に、三毒の煩悩の一つに挙げられている。
底の知れない欲の心が青い龍、火の玉のように吹き上げてくる怒りの心は赤い龍に例えられ、愚痴のいやらしい心は黒い龍、畜生界に堕ちる業といわれる。』

(浄土真宗親鸞会の資料より)

因果応報なのか?

たくみ 5月-27-2009 コメントは受け付けていません。

社会が乱れ、政治が乱れ、経済が乱れ・・・現代は生きにくい時代だといわれます。
インターネットに溢れる自殺サイトに若者が興味本位に訪れ、テレビニュースでは親殺し、子殺し、無差別殺人の報道が後を絶ちません。自らの命、親の命、子供の命、他人の命、全ての命が危険に脅かされている時代と言えるかもしれません。

「因果応報」という言葉があります。
「悪い行いは、悪い結果となって自分にふりかかる」という意味です。同じ意味の言葉で「自業自得」という言葉もあります。現在の悪い結果は、過去に悪い原因を作っている自分のせいだということ。

今、世間に溢れる事件や事故は「因果応報」なのでしょうか。
生きにくい世の中を儚んで、自ら命を絶ち、無間地獄に堕ちてしまうのはなんの因果なのでしょうか・・・。
地獄極楽といいますが、地獄に行くのか、それとも極楽浄土に行けるのか、を分けるものは何なのでしょうか。

「因果の道理」は仏教の根本原理だとご紹介しました。
その因果は複雑に絡み合っているのです。ひとつの結果には、いくつもの因縁が複雑に絡み合っていると教えるのが仏教の「因果の道理」なのです。

とかく現代人は、たったひとつの原因で、結果が生じると思いがちですが、そのようなことはありません。仏教では、複雑な因縁によって結果が生じているのだと教えられています。
「今の不幸はなんの因果か・・・」という悩みは、ひとつの原因を探す現代人の無智が原因とも言えそうです。

来し方行く末

たくみ 5月-5-2009 コメントは受け付けていません。

前回、「三世因果」というお釈迦様の教えの根幹を簡単にご紹介しました。
この三世とは、過去世、現在世、未来世のことだとお伝えしましたが、そうした言葉によくにた言葉に「来し方行く末(こしかたゆくすえ)」というのがあります。

この言葉の「行く末」というのは、日常会話にも多く使われています。
例えば、「この子の行く末が心配・・・」とか、「行く末を悲観して・・・」などと、将来のことを指す言葉として使われます。人間が生きてきて、現在から、過去(来し方)と未来(行く末)を考えるときなどに使用されてきました。

つまり行く末を考えるときには、現在のことも過去のことも合わせて考える、影響していると考える言葉だと思います。このことは「三世因果」という教えにもつながるのではないでしょうか。

「自分探し」というと、今ではない未来の自分を探すようなイメージがありますが、「三世因果」の教えにもあるように、過去を知りたければ現在を見よ、未来を知りたければ同じく現在を見よ、現在とは悠久の過去と永遠の未来とを包含しているものだということを思い出して欲しいと思います。

将来のことばかりを考えて、今が疎かになる、過去に囚われて今がなくなってしまう・・・そんな現代人が増えているのかもしれません。生きるとは、「今」を生きることに他なりません。なぜ生きるのか、今を生きる私への問いでありましょう。生きる目的がわからずしては、生きがいも虚しいものとなってしまいます。「因果の道理」によって、「今」の大切さを知り、現在の自己を見つめることが大切ではないでしょうか。

「三世因果」って?

たくみ 4月-13-2009 コメントは受け付けていません。

仏教の根本は「三世因果の教え」だといわれます。
これまでも、仏教の教えの根幹は、「因果の道理」だとか、「因縁果の道理」だとも言ってきました。ここに、「三世因果の教え」というのが加わりましたが、これは全て違うものなのでしょうか。

そうではなくて、お釈迦様が発見された「大宇宙の真理」という唯一のものを、様々な側面から説明したものに過ぎません。
つまりお釈迦様の教え、仏教の教理は「因果の道理」に集約されるということです。ちなみに仏教における道理とは「いつでもどこでも、変わらないこと」つまり真理のことを言います。

そして今回ご紹介させていただくのが「三世因果」ということ。
今までも「因果」については何度か、ご説明してきましたが、今回の「三世因果」の「三世」とは何のことをいうのでしょうか。

<三世とは?>
三世とは、過去世、現在世、未来世のことです。

「過去世」とは、過去世といいますのは、私たちが人間に生まれる以前のすべてをいいます。

「現在世」というのは、人間に生まれてから死ぬまでの50年乃至100年の人生をいいます。

「未来世」は、人間の寿命がつきて死んだ後、永遠の時をいいます。

そして、「三世因果」とは、過去を知りたければ現在を見よ、未来を知りたければ同じく現在を見よ、現在とは悠久の過去と永遠の未来とを包含しているものだと教えられたものです。それ故、現在の救いがなくして未来の救いがある道理がない、と教えているです。

因果応報

たくみ 3月-19-2009 コメントは受け付けていません。

これまで、お釈迦様の教えの根幹の「因果の道理」をご紹介してきました。
この言葉よりも、もっと身近な因果を伝える言葉に「因果応報(いんがおうほう)」というのがあります。一般的には、悪いことをすれば、自分に悪いことが返ってくると教えられていますね。

この言葉は、「因果の道理」における、「悪因悪果(あくいんあっか)」というのがもとになっていると思います。
「悪い種を蒔けば、悪い実がなる」ということですが、因果応報という言葉自体には、悪い意味はもともと無かったと考えられます。4つの漢字を分解していけば、わかることですが、「因」は原因のこと、「果」は結果のこと、「応」はこたえる、「報」はむくいるということで、合わせると、原因によって結果が生じるという意味になります。

この「因果応報」が、「悪い種を蒔けば、悪い実がなる」という風に教えられるようになったのは、悪いことをした子供を諭すために用いられたのが最初ではなかったでしょうか。

似た言葉に「自業自得」という言葉もあります。
「自らなした業の報いは自分で受けなければならない」と教える仏教用語が一般化したものですが、こういった教えの根幹にあるのが「因果の道理」です。

お釈迦様の教えである「因果の道理」は、なにごとも原因があって、結果が生じると教えています。自分に起きる幸福も、不幸も以前の自分の思い、行った行為(原因)からきているということです。因果の道理とはまことに尊いことだと思います。

「因縁をつける」とは?

たくみ 2月-22-2009 コメントは受け付けていません。

「因果(いんが)」と似た言葉に「因縁(いんねん)」というものがあります。
日常会話では、例えば「あの人は何かと因縁をつける」とか、「あの人が急に因縁をつけてきた」なんていう風に使うことが多いでしょう。意味としては、「言いがかりをつける」こと、全く無関係のものに因果関係をこじつけて、みずからの主張を述べ立てることとなります。
しかし、本来はそのような意味はありません。

この因縁というのも、もともとは仏教に起因している言葉です。
前回ご紹介した「因果の道理」で、全ての結果には必ず原因があるとご紹介しましたが、原因だけでは結果は生じません。そこに「縁(えにし)」が加わって初めて結果となると教えられているのです。

例えるなら、毎日の食卓でおなじみの「お米」ですが、お米の「因」は、もみだねです。
しかし、そのもみだねを畳や氷の上にまいても、お米にはなりません。土壌や水分、日光や空気などの条件がそろってはじめて、「お米」という「果」ができるのです。

この「土壌や水分、日光や空気などの条件」が「縁」にあたります。

すべての結果は、原因と縁がそろって生じるというのが、「因縁果の道理」となります。
つまり「因縁」とは、原因と条件ということになりますが、生じた結果に原因と条件を「こじつけて」結果の責任をなすりつけるのが、「因縁をつける」ということになります。

しかし、もちろんですが、お釈迦様はそのような教えはされていません。自分が蒔いた種に、結果が自分に降りかかると教えたのがお釈迦様の発見された「因果の道理」です。

因果の道理とは?

たくみ 1月-29-2009 コメントは受け付けていません。

「因果の道理」とは仏教の教えの根幹といわれ、すべての経典の根底に流れているものだと言われます。
簡単に言ってしまうと、「蒔かぬ種は生えませんが、蒔いた種は必ず生える。」というのが、因果の道理です。すべての結果には、必ず原因がある。原因なしに起きる結果は、万に一つ、億に一つもないと「因果の道理」には教えられています。

もう少し詳しく紹介すると、「因果の道理」とは、全ての結果には原因があると教えており、原因と結果の関係は、

善因善果(ぜんいんぜんか)
悪因悪果(あくいんあっか)
自因自果(じいんじか)

となります。

<善因善果とは?>
因果の道理に教えられている「善因善果」とは、善い行為が種となって、いい結果(実)を生み出すということ。
善い行為とは、布施(ふせ)、持戒(じかい)、忍辱(にんにく)、精進(しょうじん)、禅定(ぜんじょう)、智恵(ちえ)の六つとされています。

<悪因悪果とは?>
因果の道理に教えられている「悪因悪果」とは、悪い行為が種となって、悪い結果(不幸)を生み出すということ。悪い行為は、十悪・五逆罪・法謗罪と仏教では教えられています。

<自因自果とは?>
因果の道理に教えられている「自因自果」とは、我が身におこる全てのこと(結果)の原因は自分にあるということ。つまり、自分に起きる幸福、不幸は全て自分が蒔いた種(思い)が具体化しているということになります。

このように「因果の道理」とは、我々の運命は何によって決まるのかを教えられたもののことです。

因果律とは?

たくみ 1月-5-2009 コメントは受け付けていません。

「因果律」という言葉をお聞きになった方はいらっしゃるでしょうか。
普通に「因果関係がある」とか、「親の因果が子に報い」など日常会話にも出てくる「因果」という言葉。

少し詳しくご紹介すると、因果とはもともと仏教用語のことであり、「因」は原因、「果」は結果のことを指します。
一般的に使われる「因果応報」とは、「善い行いをすれば、善い報いが返り、悪い行いをすれば、悪い報いが返る」という意味で使われ、主に後者の「悪行は必ず裁かれる」という意味で使用されることが多いです。

しかし、「因果律」と言った場合には、科学的・哲学的用語として使われます。
因果律とは、いかなる事象も時間的に過去に起こった事を原因として起こるのであって、少なくとも未来の事象を原因としてそれよりも過去の何らかの事象が起こる、という事はないという立場をとる考えを言います。

ある事象が「原因」となってある事象が「結果」となって引き起こされると通常は考えられていますが、もともとの仏教の教えでは、そこに「縁(えん)」というものが絡むと教えています。

お釈迦様は「すべてのものは因と縁が結びついて生じる」と教えられました。花は種をまかなければ芽はでません。花が「結果」で、芽が「原因」ですが、芽が育つ為には水や空気が必要になりますが、この水や空気が「縁」にあたります。