因果についての考察

因果律、因果応報とは?

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運命のしくみ

たくみ 9月-2-2009

宗教というと、何か不思議さや、奇跡をもったものだという感じを人に与える。

何ごとか分からぬが、有難さのあるものを宗教と思わせる仕組みが、儀式とか、形式となり、それに心を向けることを宗教を信ずることだと考えている。

世界には一応、三大宗教として、仏教、キりスト教、イスラム教がある。個々の宗教の内容が異なるのはもちろんだが、宗教とは何かということにすら多くの考え方があって、思い思いの考えで「宗教とはこういうものだ」といわれるので、心の由りどころを求める人達はかえって迷わされ、あれやこれやと宗教遍歴をする羽目になる。

宗教には礼拝対象があり、教義があって、信者があるものだとし、これだけの形式がととのっていれば日本では宗教法人として認められる。

このため日本には、新旧多数のいわゆる宗教があり、それぞれ自らの教義を世にひろめようとしている。宗教を信ずることは自由であると、憲法で保障されているので、どんな宗教を信じようと国は干渉できない。だからそのうちのどれを選ぶか、あるいは選ばないのか、それは全く各自の意思にゆだねられてしまっている。

それなのに、いざ、宗教とは何か?というと実は何が何だかハッキリしない人ばかりなのである。少しものを考える人であっても、「宗教とは、人の心を安らかにし、生き甲斐を与えるものだ」と答えるぐらいであろう。

そのような、この世の悩みを解消し、心を安らかにして生き甲斐を感じさせるものが宗教なら、政治、経済、科学、芸術などの目的と違わないことになる。

人の心を安らかにし、生き甲斐を感じさせない政治なら、無意味であるし、人々の求めるものを流通させて満足させるのが経済の目的だし、天地自然の法則をつきとめて、合理化、効率化を社会にもたらすのが科学だし、人の心に美を示し、安らいを与えるのが芸術ともいえよう。
宗教を芸術なりなどというならば、もはや宗教の立場を失わせているわけだ。

宗教とは何か、これを明らかにせずして、宗教を選び取ることはできない。

真の宗教とは、単に人の心のなぐさめや、心の安らいをだけを、目的とするのではない。真の宗教を知り、それを信仰すれば、結果において、心が安らかになり、生き甲斐を感ずることにはなるが、はじめから、信じたら御利益があるとか、心が安らかになるというようなうわすべりのものは、真の宗教ではない。

宗教とは文字通り「宗」となる「教」えで、肝心要を示す教えであり、根本道理を説くものである。

肝心要に二つはない。

真の宗教は根本道理を説くものである故に、あれやこれやとあるべきでない。さらにいえば真の宗教は、政治、経済、科学、芸術などすべての営みを、人類の幸福へと善導するものである。

では宗教で明らかにされるべき根本道理とは何か。

それは分かりやすく言えば、運命のしくみである

仏教でそれは因果の道理と教えられる。因果応報とは、よく耳にする言葉だと思うが、そのことである。

因果応報なのか?

たくみ 5月-27-2009

社会が乱れ、政治が乱れ、経済が乱れ・・・現代は生きにくい時代だといわれます。
インターネットに溢れる自殺サイトに若者が興味本位に訪れ、テレビニュースでは親殺し、子殺し、無差別殺人の報道が後を絶ちません。自らの命、親の命、子供の命、他人の命、全ての命が危険に脅かされている時代と言えるかもしれません。

「因果応報」という言葉があります。
「悪い行いは、悪い結果となって自分にふりかかる」という意味です。同じ意味の言葉で「自業自得」という言葉もあります。現在の悪い結果は、過去に悪い原因を作っている自分のせいだということ。

今、世間に溢れる事件や事故は「因果応報」なのでしょうか。
生きにくい世の中を儚んで、自ら命を絶ち、無間地獄に堕ちてしまうのはなんの因果なのでしょうか・・・。
地獄極楽といいますが、地獄に行くのか、それとも極楽浄土に行けるのか、を分けるものは何なのでしょうか。

「因果の道理」は仏教の根本原理だとご紹介しました。
その因果は複雑に絡み合っているのです。ひとつの結果には、いくつもの因縁が複雑に絡み合っていると教えるのが仏教の「因果の道理」なのです。

とかく現代人は、たったひとつの原因で、結果が生じると思いがちですが、そのようなことはありません。仏教では、複雑な因縁によって結果が生じているのだと教えられています。
「今の不幸はなんの因果か・・・」という悩みは、ひとつの原因を探す現代人の無智が原因とも言えそうです。

因果応報

たくみ 3月-19-2009

これまで、お釈迦様の教えの根幹の「因果の道理」をご紹介してきました。
この言葉よりも、もっと身近な因果を伝える言葉に「因果応報(いんがおうほう)」というのがあります。一般的には、悪いことをすれば、自分に悪いことが返ってくると教えられていますね。

この言葉は、「因果の道理」における、「悪因悪果(あくいんあっか)」というのがもとになっていると思います。
「悪い種を蒔けば、悪い実がなる」ということですが、因果応報という言葉自体には、悪い意味はもともと無かったと考えられます。4つの漢字を分解していけば、わかることですが、「因」は原因のこと、「果」は結果のこと、「応」はこたえる、「報」はむくいるということで、合わせると、原因によって結果が生じるという意味になります。

この「因果応報」が、「悪い種を蒔けば、悪い実がなる」という風に教えられるようになったのは、悪いことをした子供を諭すために用いられたのが最初ではなかったでしょうか。

似た言葉に「自業自得」という言葉もあります。
「自らなした業の報いは自分で受けなければならない」と教える仏教用語が一般化したものですが、こういった教えの根幹にあるのが「因果の道理」です。

お釈迦様の教えである「因果の道理」は、なにごとも原因があって、結果が生じると教えています。自分に起きる幸福も、不幸も以前の自分の思い、行った行為(原因)からきているということです。因果の道理とはまことに尊いことだと思います。