因果についての考察

因果律、因果応報とは?

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セミの智恵 因果応報

たくみ 7月-19-2010

こういう話があります。  同じ木の梅の実でありながら、大きいのやら小さいの、丸いものやら凹んだもの、みんな形がちがっている。 “納得できぬ”と、セミが不審がる。 “六月頃、地中から這い出して、夏のことしか知らないが、お前が地中にいた春という季節には、この木に白い花が一杯だった。 蜂や蝶が飛んできて、荒された花は小さな実となり、荒されなかった花は大きな実となったのだ” “そんな馬鹿な!”  いくら説いても、セミの知恵には無駄だった。 「私」といっても、肉体のこととしか思えない私たちには、時に人生は不平等で、不可解なものに思えますが、それは、私というものを誤認し、因果応報の道理に一分一厘の狂いもないことを知らないために生じた謬見です。 智慧の眼の開けない我々凡夫には、ただ眼前の目に見えること以外は分からず、それによって来る深い因縁を知ることはできませんが、仮に宿命通という神通力が与えられ、天眼自在であったなら、一切の行為の因果が歴然として分かることでしょう。 本当の私とは、肉体が生ずる前から存在し、肉体の滅したあとも存在し続けます。それはあたかも、大河の水面に泡がポッと生じ、しばらく流れたのち、忽然と消えていくが、泡の消滅とは関係なく、大河の流れは一貫して続いているように、我々の生命も、肉体の消滅とかかわりなく、存続するものなのです。 因果の道理は、この三世(過去世・現在世・未来世)を貫く永遠の生命の上に説かれていますから、三世因果の道理といわれます。 これを納得できないと言い張る人が、上記のセミのような人だということです。

すべては因果応報なのです。

 善因善果、悪因悪果、自因自果、カボチャの種からナスビの芽が出た、ためしがない。まいたタネしか、生えてはこないのです。むろん結果は、ただちに現れるものもあれば、数十年後、さらには、来世に結ぶものもあります。遅速はあっても、いつかは必ず、果報を受ける。歴然として私がない、この因果の大道理を深信し日々精進する、これが仏法者というものです。

 これまで見てきたように、人は皆、夢を現実と思って生きています。夢とはいえ、醒めない夢ならそれは〃現実〃。中途半端な虚無感や無力感に浸っている場合ではありません。

 自分の生み出した世界に生きているのですから、運命は100パーセント自ら作っていくのです。そこに、私は悪くない、悪いのはあの人のせいだ、この人のせいだ、などという自分の思いを持ち込み、因果の道理に反した言い訳や誤魔化しを通用させようとしがちですが、本当のことが分かれば、全くそれは意味をなさないのです。まさに「死んだ子の年を数える」ような愚痴。大馬鹿。因果応報が本当のことなのです。

たとえ隠れてやったことでも、心中密かに思ったことでも、すべては業となって残り、いずれ自らに結果を出すのです。他人に見つかった、見つからなかったなど、他人の視線に左右されることではないのです。

この因果の理法を知らず、放縦邪悪の行為をすれば、この世から、恨み、呪いの苦患を受けねばなりません。
それは、自身の破滅のみならず、自分の周囲の人をも悲境に追いやることになるので、よくよく気をつけるべきでしょう。

道路には道路法規という法があり、そんなものオレは認めん!というのも勝手ですが、そんな調子で車を乗り回せば、あちこちで衝突を起こし、泣くのは法を無視した自分です。

仏教で説かれる法は、そんな人間の定めた、そらごとたわごとレベルの法ではなく、三世を貫く、三世因果の法なのです。それを謗り、無視し、ねじ曲げて、どうなるか。因果応報なのですから、法謗罪の恐ろしさを少しでも感じてもらえたらと思います。そして因果の道理をどんどん人に勧めてほしいと思います。

私たちが、この理法に従った言動をもっともっと心がければ、必ず人生は変わるでしょう。自分が変われば、周囲も変わる。ひいては世の中全体が明るくなるでしょう。因果の道理がいかに大切な教えか、どれだけ強調してもしすぎることはないと思います。

『ヘヴン』と因果応報

たくみ 4月-27-2010

因果の道理だけを説いていては、親鸞聖人の教えにはなりませんが、因果の道理が分からずに、どうして三世の存在が分かるでしょう。
三世の存在が受け入れられないのに、どうして後生(死後)が我が身の問題となりましょう。
「未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」と釈尊は教導されていますが、後生が我が身の問題とならぬのに、どうして現在の自己に目が向くでしょう。
因果の道理の結論は廃悪修善ですが、その廃悪修善の教えをおろそかにして、どうして自己の姿が分かるのでしょうか?

三世を認められず、後生が我が身の問題とならず、現在の自己に目を向けることも、廃悪修善の教えもおろそかにして、それでいて親鸞聖人の教えが「私の聞かねばならぬ大切な教え」とは、分かる道理もないことです。

ですから、因果の道理など真理ではない、ただの思い込みだと公言しながら、親鸞聖人の教えを云々する人は、根本に親鸞聖人の教えを誤解していると思います。
それでは親鸞聖人の教えを、命を懸けてでも求むべき大事な教えとは思えないと思います。
参考までに、川上未映子の『ヘブン』という小説を紹介しておきましょう。

ここには混迷する善悪の問題が、かなり高度な形で凝縮されています。
神のような絶対者を信じているコジマという少女と、ニヒリズムを極端に突き詰めたような百瀬という少年との間で、主人公の「僕」は揺れ動きます。

◆     ◆      ◆

「わたしたちは仲間です」。
ある日、14歳の「僕」に届いた1枚のメモ。クラスの男子生徒から、毎日いじめられている「僕」にそのメモを送ったのは、クラスメートの女子生徒「コジマ」だった。
同じくいじめに遭っていたコジマと「僕」はやがて恋愛とも友情ともいえない絆で結ばれる。
コジマは、どんな苦しみにも意味がある、と言う。その意味とは、ここではないどこかに、神聖な世界がきっとあって、だからこそ人は生きている。どんな苦しみも乗り越える意味がある、というようなことを言う。
ただひたすら、いじめ抜かれて、悲惨で、残酷でしかなかった「僕」の日常が、耐えるだけの意味あるものに思え、何か明るい輝きが差し込み始める。

ところが、病院で出会ったいじめグループの一人、百瀬との話し合いで、「僕」のその思いは完全否定されてしまう。百瀬は言う。この世界に意味なんてものは何も無い。だからいじめなど意味が無いし、耐えることにも意味がない。
だったらいじめるのをやめろ、と「僕」が抗議すると、意味があるからいじめているわけではない。あるのは「やりたい」という衝動、あるいはムードみたいなものでしかないと言う。「僕」は、自分の斜視が原因でいじめられているとばかり思っていたが、百瀬はそんな理由さえない、と言う。理由の無い、無意味なただの暴
力だという。

「理由も無いのに、日常的に暴力をふるわれて僕は迷惑している。それが暴力をふるってはならない十分な理由ではないか」というようなことを言うと、そう思うのは100パーセントお前の勝手だが、いじめたいと思うのも、100パーセントこちらの勝手だ。自分が思えば、思ったとおりに現実の方からは変わってくれると
思っているのか?と反対になじられる。

「自分が、されたら嫌だと思うことは、他人にもしてはいけない」などというのは、とんだウソッパチだと百瀬は言う。世の中は皆、自分がされたら嫌だと思うことを、平気で人にさせている、と言って、世の中のいろいろの矛盾を例に出す。そして百瀬は、「それでいいと思う」と言う。自分の身は自分で守るしかない。

この世の無意味に耐え切れない弱い人間が、ありもしない神やら天国やらをでっち上げる。現実を変える力が自分になかっただけなのに、悲惨な人生を、これには価値があるんだ、意味があるんだと自ら慰めている。
この世のすべてに意味なんかないのだから、究極的には善も悪もなく、すべては許されている。

こういう百瀬の言葉に、「僕」は反発しながらも、心のどこかで、その通りだとも思ってしまう。

そして物語はやがて衝撃的なラストを迎える。

◆     ◆      ◆

これは、いじめを物語の中心にすえながら、学校のあり方や、いじめをどうこう言う作品ではありません。
だから最後は、復讐でも和解でもない。
ハッピーエンドではもちろんないし、ビターエンドとも言えない。
因果の道理を知らなければ、とことん踏み迷う善悪の問題が、むき出しに提起されているのです。
善因善果、悪因悪果、自因自果なんて、経験則として、確率的に、ある程度そういうことが言えるというだけであって、仏教なんて信じなくっても、社会人としての常識があればそれで十分、といった、適当で、不徹底な言い回しを好む人が多いですが、そんな説は、百瀬のような鋭利なニヒリストを前にしては、完全に論破されるでしょう。

因果応報 蝉の知恵

たくみ 2月-8-2010

善因善果 悪因悪果 自因自果 という因果の道理を真に理解されたなら、それは現世のみならず、三世に広がることもまた了解されうることでしょう。

しかし、因果の道理をひと通り耳で聞いて合点し、大体、確率的にそういうことも言えるでしょうくらいの理解ですませてはいないでしょうか。
だから、もっと深い教えはないのか、と先を急ぎ、お聖教の難解な御文の海に溺れてしまう人も出てくるのです。

親鸞会を非難している人の大半はそうだと思います。
でもそれは他人事ではまったくないのです。
だからこそお互いに、因果の道理の理解を、堅実に深めていきましょうと思ってこれを書いています。

さて、こういう話があります。

 同じ木の梅の実でありながら、大きいのやら小さいの、
丸いものやら凹んだもの、みんな形がちがっている。

“納得できぬ”と、セミが不審がる。

“六月頃、地中から這い出して、夏のことしか知らないが、
お前が地中にいた春という季節には、この木に白い花が
一杯だった。
 蜂や蝶が飛んできて、荒された花は小さな実となり、
荒されなかった花は大きな実となったのだ”

“そんな馬鹿な!”

いくら説いても、セミの知恵には無駄だった。

私といっても、肉体のこととしか思えない私たちには、三世因果ということが感覚的に理解できず、すべては己が蒔いたタネと言われることに、何か不条理で、理不尽なものを感じてしまうことがあります。
しかしそれは、私が「私」というものを誤認したところから生じた謬見(びゅうけん)ともいえるのです。

「私」とは何か?
これは古来から謎とされてきました。
常識的には、この肉体を指して「私」と言い、それで特に問題はないのですが、突き詰めて考えると、その信念も実は根拠があいまいで、よく分からなくなってくるものなのです。

私とは肉体のことではなく、かといって、肉体に宿った何か、でもありません。
(それについては、だいぶ後になると思いますが、詳述したいと考えています)

本当の「私」とは、肉体が生ずる前も、肉体の滅したあとも存在します。
それはあたかも、大河の水面に泡がポッと生じ、しばらく流れたのち、忽然と消えていきますが、泡の消滅とは関係なく、大河の流れは一貫しているようなものです。我々の生命も肉体の消滅とかかわりなく、悠久の過去から永遠の未来へ続く不滅のもの、と仏教では教えられています。

因果の道理は、この三世(過去世・現在世・未来世)を貫く永遠の生命の上に説かれていますから、三世因果の道理といわれるのですが、これを「納得できない」と言い張る人は、例えて言えば、上記のセミのような人だということです。

因果応報 因果応報

因果応報と廃悪修善

たくみ 2月-1-2010

仏教に説かれる因果の道理とは、

善因善果 悪因悪果 自因自果 のことです。

善い行為をすれば(善因)、幸福になれる(善果)。悪い行為をすると(悪因)、苦しみ悩むようになる(悪果)。あなたのやった行為(自因)が、あなたの一切の運命を作っていく(自果)、ということです。

善悪の問題はややこしくなりがちですが、無用の議論を避けるため、幸せになるタネを善、苦しみ悩むことになるタネを悪と言う、と理解してもらえばいいと思います。

つまり善因善果 悪因悪果とは、
幸せになるタネを蒔けば、幸せになり、
苦しむタネを蒔けば、苦しむことになる、という当然の話なのです。

故に、幸も不幸も、自らの蒔いたタネの結果(自因自果)と受け入れられれば、当然、次のような心になってきます。すなわち、

廃悪修善(はいあくしゅぜん)

悪いことをすれば、苦しむのは自分ですから、自ずから悪を慎もうという心になります。だれしも願うのは幸せですから、幸せになれるよう善に向かおうという心になります。それが廃悪修善で、因果の道理の結論でもあります。

では、何が善で、何が悪なのか?
それを知らねば、実践しようがありませんので、釈尊はその点についても、詳しく教導されています。

それが六度万行といわれる教えです。

たくさんある善行を、私たちが実践しやすいよう六つにまとめられたものです。

では、その六つの善とは何か?
以下の通りです。

・布施(ふせ)
・持戒(じかい)
・忍辱(にんにく)
・精進(しょうじん)
・禅定(ぜんじょう)
・智慧(ちえ)

それぞれどんな善かというと

【布施】とは、他人に施すこと。これはお金や物に限らず、他人のために何かをしてあげることだから、広い意味での親切にあたります。

【持戒】とは、戒律を守ることをいうのですが、一般人に戒律はないですから、私たちの日常に即していえば、信頼される言動をとることにあたります。身近に言えば約束を守ること。決して裏切らない。

【忍辱】とは忍耐。苦しくても笑って耐え忍ぶ。投げ出さない。

【精進】とは努力。怠けない。

【禅定】とは心を静め、精神を統一すること。自己を顧みて反省していくことにあたります。

【智慧】とは、前の5つを合わせたようなもの。因果の道理を明らかにみて修養に心がける。

これらはいずれも善行ですから、やればやるだけ、善果が報いてきます。つまり、いつも親切で他人から愛され、した約束は必ず果たして裏切らない。さらにどんな苦境に立たされても、笑って忍び、責任を放棄せず、常に努力を惜しまない。それでいて己をわきまえ、思いあがったところがなく、因果の道理を信じて、日々、善に心がけて脱線することがない。

これで恵まれないということがありましょうか?

善の反対は悪ですから、もちろん六度万行の反対語もあります。

布施→慳貪(けんどん)持戒→破戒(はかい)忍辱→瞋恚(しんに)精進→懈怠(けたい) 禅定→散乱(さんらん)智慧→愚痴(ぐち)
であります。

六度万行の反対をやるとどうなるか?

ケチで施しを知らず、自分のことしか考えていないから他人から疎まれ、約束を平気で破って人の信頼を裏切り、気に入らないことがあると我慢ができずにすぐ怒り出し、やりかけの仕事もすぐ放り出す。人の目がなければ怠けてばかりで、そのくせ我が身知らずだから、少し事がうまく運ぶとすぐ「どうだ」と調子に乗り、うまくいかないと他人のせいにする。因果の道理を馬鹿にして信ぜず、やりたいように生きるだけさとか言って、脱線のし放題。因果はテキメンで、どんどん窮地に立たされていくが、愚痴で己の蒔いたタネだと悟らないから、親が悪い、学校が悪い、政治が悪いと、とんでもないところに八つ当たりして、「オレ様を認めない世間はバカばかりだ」というようなことを言ったり、書いたりする。

この結果はどうなるか。これで恵まれたら、それこそ不思議です。

因果の道理を知り、善、悪のタネを知れば、現在の自分の境遇はだれでもない、自らのタネ蒔きが生み出した結果と知らされるではありませんか。

自分の運命は、自分が作るのです。他の何ものも、そこに直接関与はいたしません。
善悪の行為に応じて、知らず知らず、善悪の果報の定むるところへ自ずと運ばれていくのです。それは何人も変えられない厳粛な法則です。

因果応報 因果応報

因果応報について

たくみ 12月-10-2009

人生には良い時もあれば、悪い時もあります。
人生いろいろで、それまで順調だった人生が、地震や火災など予期せぬ災害に見舞われ、急転直下する人もあります。

なぜその災害は起きたのか?その原因を究明し、明らかにすることはできますし、再発を防ぐためにもそれは大事なことでしょう。
しかしそんな時、例えその災害の原因が明らかになったとして、もう一つスッキリしないことがあるのです。
それは、なぜ、その悲劇の主人公が〃私〃だったのか、という点です。
なぜ他の人ではなく、私だったのか?その原因は?……

問題の核心は、そこにあるのでしょう。

それは災害現場をくまなく検証して、解明できることではないはずです。
解明する方角が違うからです。

なぜ、私が?

それが分からないから、人はこの世の「理不尽」を嘆き、やり場のない怒りに苦しみます。
どうして自分だけがこんな目に……という思いをいつまでも引きずるのです。

では、そこに原因は「ある」のか、それとも「ない」のか。「ある」なら、どういうことなのか?
ここに仏教では、因果応報ともいわれる、厳粛な道理が説かれるのです。

なぜ起きたのか?

たくみ 10月-14-2009

さて、私たちは比較的順境な環境、つまり仕事も収入も安定し、人間関係や家庭生活、健康も良好で、生きることに比較的満足できている時は、因果の道理に別段、不審を抱くことはない。
善因善果 自因自果。あったりまえだろ、くらいに思うのである。

問題はその逆の場合である。

人生には予想だにしない不幸が、津波のように襲ってくることがある。
そういう時は、自分をこんな目に合わせたのは誰かと探し回り、その相手に怒り、憎しみ、うらみつらみの石つぶてを投げつけずにおれなくなってくる。どうして悪因悪果 自因自果だなどと容認できようか。

都合のいい時は自分のせい。都合に反すれば他人のせい。それが悲しいかな私たちの実態である。

だが、我々の感情からすればそうであっても、事実はどうなのか?

いささか古い話になるが、2年前、ある遊園地のジェットコースターが事故を起こし、死者1名、重軽傷者19名を出したことがあった。亡くなられた方は若い女性で、しかもコースターと手すりに挟まれ、首がちぎれるという悲惨な現場であったらしい。

こういう場合、必ず記者会見が開かれ、遊園地側の責任者が出ていかざるを得ない。
ここで聞かれることは決まっていて、「なぜこの事故はおきたのか」という一点に集中する。

もしこの時、責任者が、
「今回の事故は、偶然、起きました」だとか、
「いやー、たまたま、だったんですねえ」
というような発言をしたらどうだろう。
なに馬鹿なこと言ってんだコイツ、原因がないわけないだろ!「偶然」とか「たまたま」で誤魔化すな!と怒り心頭となるのではなかろうか?

事実、原因がなければ事故は発生しようがない。どんな結果にも原因がある。それはだれしも認めることだ。
だから当然、現場では徹底した事故原因が究明されるが、報道によれば、あの事故の原因は、車軸の破損による脱線で、それは管理者の点検不良によるものだったらしい。

一応それでこの事件は一件落着した。

だが、果たして遺族はそれでスッキリしただろうか?と思うのである。
何がスッキリしないのだろうか。

それは、なぜ事故の当事者がその女性だったのか?なぜ他の人ではなかったのか?
という点なのである。