因果についての考察

因果律、因果応報とは?

因果応報 蝉の知恵

たくみ 2月-8-2010 コメントは受け付けていません。

善因善果 悪因悪果 自因自果 という因果の道理を真に理解されたなら、それは現世のみならず、三世に広がることもまた了解されうることでしょう。

しかし、因果の道理をひと通り耳で聞いて合点し、大体、確率的にそういうことも言えるでしょうくらいの理解ですませてはいないでしょうか。
だから、もっと深い教えはないのか、と先を急ぎ、お聖教の難解な御文の海に溺れてしまう人も出てくるのです。

親鸞会を非難している人の大半はそうだと思います。
でもそれは他人事ではまったくないのです。
だからこそお互いに、因果の道理の理解を、堅実に深めていきましょうと思ってこれを書いています。

さて、こういう話があります。

 同じ木の梅の実でありながら、大きいのやら小さいの、
丸いものやら凹んだもの、みんな形がちがっている。

“納得できぬ”と、セミが不審がる。

“六月頃、地中から這い出して、夏のことしか知らないが、
お前が地中にいた春という季節には、この木に白い花が
一杯だった。
 蜂や蝶が飛んできて、荒された花は小さな実となり、
荒されなかった花は大きな実となったのだ”

“そんな馬鹿な!”

いくら説いても、セミの知恵には無駄だった。

私といっても、肉体のこととしか思えない私たちには、三世因果ということが感覚的に理解できず、すべては己が蒔いたタネと言われることに、何か不条理で、理不尽なものを感じてしまうことがあります。
しかしそれは、私が「私」というものを誤認したところから生じた謬見(びゅうけん)ともいえるのです。

「私」とは何か?
これは古来から謎とされてきました。
常識的には、この肉体を指して「私」と言い、それで特に問題はないのですが、突き詰めて考えると、その信念も実は根拠があいまいで、よく分からなくなってくるものなのです。

私とは肉体のことではなく、かといって、肉体に宿った何か、でもありません。
(それについては、だいぶ後になると思いますが、詳述したいと考えています)

本当の「私」とは、肉体が生ずる前も、肉体の滅したあとも存在します。
それはあたかも、大河の水面に泡がポッと生じ、しばらく流れたのち、忽然と消えていきますが、泡の消滅とは関係なく、大河の流れは一貫しているようなものです。我々の生命も肉体の消滅とかかわりなく、悠久の過去から永遠の未来へ続く不滅のもの、と仏教では教えられています。

因果の道理は、この三世(過去世・現在世・未来世)を貫く永遠の生命の上に説かれていますから、三世因果の道理といわれるのですが、これを「納得できない」と言い張る人は、例えて言えば、上記のセミのような人だということです。

因果応報 因果応報

因果応報と廃悪修善

たくみ 2月-1-2010 コメントは受け付けていません。

仏教に説かれる因果の道理とは、

善因善果 悪因悪果 自因自果 のことです。

善い行為をすれば(善因)、幸福になれる(善果)。悪い行為をすると(悪因)、苦しみ悩むようになる(悪果)。あなたのやった行為(自因)が、あなたの一切の運命を作っていく(自果)、ということです。

善悪の問題はややこしくなりがちですが、無用の議論を避けるため、幸せになるタネを善、苦しみ悩むことになるタネを悪と言う、と理解してもらえばいいと思います。

つまり善因善果 悪因悪果とは、
幸せになるタネを蒔けば、幸せになり、
苦しむタネを蒔けば、苦しむことになる、という当然の話なのです。

故に、幸も不幸も、自らの蒔いたタネの結果(自因自果)と受け入れられれば、当然、次のような心になってきます。すなわち、

廃悪修善(はいあくしゅぜん)

悪いことをすれば、苦しむのは自分ですから、自ずから悪を慎もうという心になります。だれしも願うのは幸せですから、幸せになれるよう善に向かおうという心になります。それが廃悪修善で、因果の道理の結論でもあります。

では、何が善で、何が悪なのか?
それを知らねば、実践しようがありませんので、釈尊はその点についても、詳しく教導されています。

それが六度万行といわれる教えです。

たくさんある善行を、私たちが実践しやすいよう六つにまとめられたものです。

では、その六つの善とは何か?
以下の通りです。

・布施(ふせ)
・持戒(じかい)
・忍辱(にんにく)
・精進(しょうじん)
・禅定(ぜんじょう)
・智慧(ちえ)

それぞれどんな善かというと

【布施】とは、他人に施すこと。これはお金や物に限らず、他人のために何かをしてあげることだから、広い意味での親切にあたります。

【持戒】とは、戒律を守ることをいうのですが、一般人に戒律はないですから、私たちの日常に即していえば、信頼される言動をとることにあたります。身近に言えば約束を守ること。決して裏切らない。

【忍辱】とは忍耐。苦しくても笑って耐え忍ぶ。投げ出さない。

【精進】とは努力。怠けない。

【禅定】とは心を静め、精神を統一すること。自己を顧みて反省していくことにあたります。

【智慧】とは、前の5つを合わせたようなもの。因果の道理を明らかにみて修養に心がける。

これらはいずれも善行ですから、やればやるだけ、善果が報いてきます。つまり、いつも親切で他人から愛され、した約束は必ず果たして裏切らない。さらにどんな苦境に立たされても、笑って忍び、責任を放棄せず、常に努力を惜しまない。それでいて己をわきまえ、思いあがったところがなく、因果の道理を信じて、日々、善に心がけて脱線することがない。

これで恵まれないということがありましょうか?

善の反対は悪ですから、もちろん六度万行の反対語もあります。

布施→慳貪(けんどん)持戒→破戒(はかい)忍辱→瞋恚(しんに)精進→懈怠(けたい) 禅定→散乱(さんらん)智慧→愚痴(ぐち)
であります。

六度万行の反対をやるとどうなるか?

ケチで施しを知らず、自分のことしか考えていないから他人から疎まれ、約束を平気で破って人の信頼を裏切り、気に入らないことがあると我慢ができずにすぐ怒り出し、やりかけの仕事もすぐ放り出す。人の目がなければ怠けてばかりで、そのくせ我が身知らずだから、少し事がうまく運ぶとすぐ「どうだ」と調子に乗り、うまくいかないと他人のせいにする。因果の道理を馬鹿にして信ぜず、やりたいように生きるだけさとか言って、脱線のし放題。因果はテキメンで、どんどん窮地に立たされていくが、愚痴で己の蒔いたタネだと悟らないから、親が悪い、学校が悪い、政治が悪いと、とんでもないところに八つ当たりして、「オレ様を認めない世間はバカばかりだ」というようなことを言ったり、書いたりする。

この結果はどうなるか。これで恵まれたら、それこそ不思議です。

因果の道理を知り、善、悪のタネを知れば、現在の自分の境遇はだれでもない、自らのタネ蒔きが生み出した結果と知らされるではありませんか。

自分の運命は、自分が作るのです。他の何ものも、そこに直接関与はいたしません。
善悪の行為に応じて、知らず知らず、善悪の果報の定むるところへ自ずと運ばれていくのです。それは何人も変えられない厳粛な法則です。

因果応報 因果応報

因果応報について

たくみ 12月-10-2009 コメントは受け付けていません。

人生には良い時もあれば、悪い時もあります。
人生いろいろで、それまで順調だった人生が、地震や火災など予期せぬ災害に見舞われ、急転直下する人もあります。

なぜその災害は起きたのか?その原因を究明し、明らかにすることはできますし、再発を防ぐためにもそれは大事なことでしょう。
しかしそんな時、例えその災害の原因が明らかになったとして、もう一つスッキリしないことがあるのです。
それは、なぜ、その悲劇の主人公が〃私〃だったのか、という点です。
なぜ他の人ではなく、私だったのか?その原因は?……

問題の核心は、そこにあるのでしょう。

それは災害現場をくまなく検証して、解明できることではないはずです。
解明する方角が違うからです。

なぜ、私が?

それが分からないから、人はこの世の「理不尽」を嘆き、やり場のない怒りに苦しみます。
どうして自分だけがこんな目に……という思いをいつまでも引きずるのです。

では、そこに原因は「ある」のか、それとも「ない」のか。「ある」なら、どういうことなのか?
ここに仏教では、因果応報ともいわれる、厳粛な道理が説かれるのです。

なぜ起きたのか?

たくみ 10月-14-2009 コメントは受け付けていません。

さて、私たちは比較的順境な環境、つまり仕事も収入も安定し、人間関係や家庭生活、健康も良好で、生きることに比較的満足できている時は、因果の道理に別段、不審を抱くことはない。
善因善果 自因自果。あったりまえだろ、くらいに思うのである。

問題はその逆の場合である。

人生には予想だにしない不幸が、津波のように襲ってくることがある。
そういう時は、自分をこんな目に合わせたのは誰かと探し回り、その相手に怒り、憎しみ、うらみつらみの石つぶてを投げつけずにおれなくなってくる。どうして悪因悪果 自因自果だなどと容認できようか。

都合のいい時は自分のせい。都合に反すれば他人のせい。それが悲しいかな私たちの実態である。

だが、我々の感情からすればそうであっても、事実はどうなのか?

いささか古い話になるが、2年前、ある遊園地のジェットコースターが事故を起こし、死者1名、重軽傷者19名を出したことがあった。亡くなられた方は若い女性で、しかもコースターと手すりに挟まれ、首がちぎれるという悲惨な現場であったらしい。

こういう場合、必ず記者会見が開かれ、遊園地側の責任者が出ていかざるを得ない。
ここで聞かれることは決まっていて、「なぜこの事故はおきたのか」という一点に集中する。

もしこの時、責任者が、
「今回の事故は、偶然、起きました」だとか、
「いやー、たまたま、だったんですねえ」
というような発言をしたらどうだろう。
なに馬鹿なこと言ってんだコイツ、原因がないわけないだろ!「偶然」とか「たまたま」で誤魔化すな!と怒り心頭となるのではなかろうか?

事実、原因がなければ事故は発生しようがない。どんな結果にも原因がある。それはだれしも認めることだ。
だから当然、現場では徹底した事故原因が究明されるが、報道によれば、あの事故の原因は、車軸の破損による脱線で、それは管理者の点検不良によるものだったらしい。

一応それでこの事件は一件落着した。

だが、果たして遺族はそれでスッキリしただろうか?と思うのである。
何がスッキリしないのだろうか。

それは、なぜ事故の当事者がその女性だったのか?なぜ他の人ではなかったのか?
という点なのである。

運命のしくみ

たくみ 9月-2-2009 コメントは受け付けていません。

宗教というと、何か不思議さや、奇跡をもったものだという感じを人に与える。

何ごとか分からぬが、有難さのあるものを宗教と思わせる仕組みが、儀式とか、形式となり、それに心を向けることを宗教を信ずることだと考えている。

世界には一応、三大宗教として、仏教、キりスト教、イスラム教がある。個々の宗教の内容が異なるのはもちろんだが、宗教とは何かということにすら多くの考え方があって、思い思いの考えで「宗教とはこういうものだ」といわれるので、心の由りどころを求める人達はかえって迷わされ、あれやこれやと宗教遍歴をする羽目になる。

宗教には礼拝対象があり、教義があって、信者があるものだとし、これだけの形式がととのっていれば日本では宗教法人として認められる。

このため日本には、新旧多数のいわゆる宗教があり、それぞれ自らの教義を世にひろめようとしている。宗教を信ずることは自由であると、憲法で保障されているので、どんな宗教を信じようと国は干渉できない。だからそのうちのどれを選ぶか、あるいは選ばないのか、それは全く各自の意思にゆだねられてしまっている。

それなのに、いざ、宗教とは何か?というと実は何が何だかハッキリしない人ばかりなのである。少しものを考える人であっても、「宗教とは、人の心を安らかにし、生き甲斐を与えるものだ」と答えるぐらいであろう。

そのような、この世の悩みを解消し、心を安らかにして生き甲斐を感じさせるものが宗教なら、政治、経済、科学、芸術などの目的と違わないことになる。

人の心を安らかにし、生き甲斐を感じさせない政治なら、無意味であるし、人々の求めるものを流通させて満足させるのが経済の目的だし、天地自然の法則をつきとめて、合理化、効率化を社会にもたらすのが科学だし、人の心に美を示し、安らいを与えるのが芸術ともいえよう。
宗教を芸術なりなどというならば、もはや宗教の立場を失わせているわけだ。

宗教とは何か、これを明らかにせずして、宗教を選び取ることはできない。

真の宗教とは、単に人の心のなぐさめや、心の安らいをだけを、目的とするのではない。真の宗教を知り、それを信仰すれば、結果において、心が安らかになり、生き甲斐を感ずることにはなるが、はじめから、信じたら御利益があるとか、心が安らかになるというようなうわすべりのものは、真の宗教ではない。

宗教とは文字通り「宗」となる「教」えで、肝心要を示す教えであり、根本道理を説くものである。

肝心要に二つはない。

真の宗教は根本道理を説くものである故に、あれやこれやとあるべきでない。さらにいえば真の宗教は、政治、経済、科学、芸術などすべての営みを、人類の幸福へと善導するものである。

では宗教で明らかにされるべき根本道理とは何か。

それは分かりやすく言えば、運命のしくみである

仏教でそれは因果の道理と教えられる。因果応報とは、よく耳にする言葉だと思うが、そのことである。

情けは人のためならず

たくみ 7月-14-2009 コメントは受け付けていません。

よく使われる言葉に「情けは人のためならず」というものがあります。
中には勘違いして、「親切(情け)はその人のためにならない」と覚えている人もいるかもしれませんが、本来の意味は「人に親切にすれば、その人(相手)のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分にもどってくる」という意味です。

つまり、お釈迦様の教えられた「因果の道理」がここにもあるのです。
善因善果、悪因悪果、自因自果という因果の道理の教えをここでも学ぶことが出来ます。

また、浄土真宗親鸞会では「自利利他(じりりた)」という言葉が紹介されています。
「善いことをすれば幸せに、悪いことをすれば不幸になる。自分の行いが、幸不幸の運命をつくる」という因果の道理。

自分さえ良ければいい、という「我利我利(がりがり)」の考えでは自分が不幸になってしまう。
相手の立場に立って心を配って、互いに気持ちよく接することができる「自利自他」という考えが、皆を幸せにするという因果の道理をお釈迦様は教えられたのです。

悪をやめて善いことをしなさい、と教えられたお釈迦様の真意は皆が幸福になれる道を説かれたのです。
因果の道理は、とかく「因果応報」、「自業自得」と言われ、悪事を戒める言葉として教えられていますが、お釈迦様が説かれた「因果」とは、皆を幸福にする真理を教えられた素晴らしい教えなのです。

「因果」とは、「原因と結果」とも言われますが、「因果の道理」を説かれたのは、全ての人を本当の幸せに導くぞ!というお釈迦様の確固たる決意が感じられる教えなのではないでしょうか。

和顔愛語

たくみ 6月-30-2009 コメントは受け付けていません。

仏教に「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉があります。
「和顔」は、和やかな、やわらかな笑顔のこと。「愛語」は、やさしい言葉を意味します。つまり、この言葉には「相手の立場を思いやり、やわらかな表情でやさしい言葉で語りかけること」いう意味があります。

笑顔でやさしい言葉を人に与えることが「布施」になるという教えです。
布施は金品でなければならないとお考えの方もいらっしゃると思いますが、そんなことはありません。思いやりの心で相手に奉仕し、喜びを与えることが布施なのです。

「笑う門には福来る」
という言葉もありますが、笑顔でいることが幸せを招くということですね。これも「因果の道理」の教えです。
いい種を蒔けば、いい果がなるという因果の道理(善因善果、自因自果)の教えが根底にあると親鸞会では教えられています。

一般に「因果応報」と言うと、とかく悪いことをすれば悪いことが身に降りかかるという因果の道理のネガティブな面を強調してしまいがちですが、お釈迦様の発見された「因果の道理」には、いい種を蒔けばいい果がなるというポジティブな面も同様にあるのです。

「因果の道理」の自因自果とは、自分の蒔いた種は自分に返るという教えです。
相手を思いやる心でもって人に笑顔で接し、やさしい言葉をかけることによって布施となる。そしてそれは因果の道理によって、自分に感謝となって返ってくるということをおっしゃっているのではないでしょうか。

愚痴

たくみ 6月-14-2009 コメントは受け付けていません。

浄土真宗親鸞会で「因果の道理」を題材に話されている法話がありましたので、ご紹介させていただきます。

『世間ではよく、「愚痴をこぼす」「愚痴っぽい」「愚痴る」などといわれる。
「愚痴をこぼす」は、いっても甲斐のないことをいって嘆くことであり、それをいつもくり返す人が愚痴っぽい人である。
愚も馬鹿なら、痴も知恵が病気にかかっている字だから、同じくおろかで、ものの道理に暗いこと。

因果の道理(自因自果)とは思えないから、
「こんなはずではなかったに」
と、不平で世の中を呪い、ネタミとウラミで何度でも同じことをくり返しているから、感謝することを知らない。

俗に、
「隣の貧乏、雁の味」
「近頃は悪しくなりにけり、隣に倉が建ちしよりのち」
といわれるのも、愚痴から起こる悲しきネタミである。

同等の貧乏人が、一方は幸福が続いて、家も新築し倉まで造って旦那となり、一方は、相変わらずの不幸続きに子だくさんでうだつが上がらないから、隣が癪のタネになる。

心ひそかに、隣に何か腰の折れるような災難がおきればよいが、火事でもあったらよいがなあ、と祈っている悪魔の心がひそんでいる。

立派に成功したのも、貧乏が続くのも自業自得の道理。
愚痴で因果の道理が分からないから、馬鹿な心が出てくるのである。

一切の人の不幸を見ては冷笑し、禍いを聞いては横手を打って喜ぶ。
他人の名誉を憎み、友人の出世を怨み、人の不幸を楽しむ心はあっても、泣き悲しむ心はないではないか。ネタミ、ソネミ、ニクシミ、ウラミの醜い心が愚痴である。

なお、仏教では、貪欲(欲)瞋恚(怒り)と共に、三毒の煩悩の一つに挙げられている。
底の知れない欲の心が青い龍、火の玉のように吹き上げてくる怒りの心は赤い龍に例えられ、愚痴のいやらしい心は黒い龍、畜生界に堕ちる業といわれる。』

(浄土真宗親鸞会の資料より)

因果応報なのか?

たくみ 5月-27-2009 コメントは受け付けていません。

社会が乱れ、政治が乱れ、経済が乱れ・・・現代は生きにくい時代だといわれます。
インターネットに溢れる自殺サイトに若者が興味本位に訪れ、テレビニュースでは親殺し、子殺し、無差別殺人の報道が後を絶ちません。自らの命、親の命、子供の命、他人の命、全ての命が危険に脅かされている時代と言えるかもしれません。

「因果応報」という言葉があります。
「悪い行いは、悪い結果となって自分にふりかかる」という意味です。同じ意味の言葉で「自業自得」という言葉もあります。現在の悪い結果は、過去に悪い原因を作っている自分のせいだということ。

今、世間に溢れる事件や事故は「因果応報」なのでしょうか。
生きにくい世の中を儚んで、自ら命を絶ち、無間地獄に堕ちてしまうのはなんの因果なのでしょうか・・・。
地獄極楽といいますが、地獄に行くのか、それとも極楽浄土に行けるのか、を分けるものは何なのでしょうか。

「因果の道理」は仏教の根本原理だとご紹介しました。
その因果は複雑に絡み合っているのです。ひとつの結果には、いくつもの因縁が複雑に絡み合っていると教えるのが仏教の「因果の道理」なのです。

とかく現代人は、たったひとつの原因で、結果が生じると思いがちですが、そのようなことはありません。仏教では、複雑な因縁によって結果が生じているのだと教えられています。
「今の不幸はなんの因果か・・・」という悩みは、ひとつの原因を探す現代人の無智が原因とも言えそうです。

来し方行く末

たくみ 5月-5-2009 コメントは受け付けていません。

前回、「三世因果」というお釈迦様の教えの根幹を簡単にご紹介しました。
この三世とは、過去世、現在世、未来世のことだとお伝えしましたが、そうした言葉によくにた言葉に「来し方行く末(こしかたゆくすえ)」というのがあります。

この言葉の「行く末」というのは、日常会話にも多く使われています。
例えば、「この子の行く末が心配・・・」とか、「行く末を悲観して・・・」などと、将来のことを指す言葉として使われます。人間が生きてきて、現在から、過去(来し方)と未来(行く末)を考えるときなどに使用されてきました。

つまり行く末を考えるときには、現在のことも過去のことも合わせて考える、影響していると考える言葉だと思います。このことは「三世因果」という教えにもつながるのではないでしょうか。

「自分探し」というと、今ではない未来の自分を探すようなイメージがありますが、「三世因果」の教えにもあるように、過去を知りたければ現在を見よ、未来を知りたければ同じく現在を見よ、現在とは悠久の過去と永遠の未来とを包含しているものだということを思い出して欲しいと思います。

将来のことばかりを考えて、今が疎かになる、過去に囚われて今がなくなってしまう・・・そんな現代人が増えているのかもしれません。生きるとは、「今」を生きることに他なりません。なぜ生きるのか、今を生きる私への問いでありましょう。生きる目的がわからずしては、生きがいも虚しいものとなってしまいます。「因果の道理」によって、「今」の大切さを知り、現在の自己を見つめることが大切ではないでしょうか。